「毎日、映画をみているようなものですよ。ここに立っていると”世の中”が扉の向こうからやってきてくれる。そんな感覚です。」

42年間。喫茶店〈六曜社〉に立ち続ける奥野修さんに「日々、何を思ってお店に立っていますか」と訊いて、返ってきたのがこの言葉。
「だから、案外、楽な仕事ですよ」と冗談交じりに笑っておられたが
コーヒーでもなく、奥野さんでもなく、六曜社に足を踏み入れたあなたこそが「主役」なのだといわんばかりのそのまなざしが、何よりも六曜社が六曜社でありつづける所以なのだと思った。

六曜社 階段

六曜社 地下店
刻々と変わりゆく繁華街の中心にありながら、70年近く、同じ場所に変わらず在り続ける喫茶店〈六曜社〉。さまざまな時代をくぐり抜けて、年齢も職業も関係なく多種多様な人が集い、語り合い、まちのサロン的役割を担ってきた場所。

京都には、人々が積み重ねてきた時間を空間そのものに凝縮したような、まちの「財産」とも言える古い喫茶店がいくつも残っている。

ただ、それらがまったく「変わらない場所」だと思っていたのは、なかば旅行者である自分のエゴだった。

六曜社 地下店
六曜社には1Fと地下店がある。今回は地下店のご紹介。階段を降りていくと、地上の喧騒とは全く別世界の空間が広がっている。六曜社六曜社の内装は1965年の改装当時そのまま。1Fの純喫茶も、そのときにオープン。

地下店は、18時以降はバーになる。カウンターの奥にはウイスキーのボトルがずらり。

六曜社 タイル

空間を形づくるタイルはオーダーものではなく、当時の「普通のタイル屋さんで買ってきたタイル」なのだそう。1960年代の日本の「ふつう」のものづくりのレベルの高さに圧倒される。

六曜社 奥野さん 「変わらないのは、お店の建物だけで、お客さんも店に立つ側も、どんどん変わっていってますよ。」

修さんによると、いまは再び「喫茶店を使い出してもらっている」感覚があるという。反面、そうではない時代もずいぶんとあった。〈六曜社〉にさまざまな人が入り乱れ、喫茶店が最も熱気を帯びていたのは先代・奥野実さんの時代。世の中で「カフェバー」が流行りだしたとき「喫茶店」にはどこか古くさいイメージがつきまとい、人々の足は、喫茶店から遠のいてしまった。

六曜社 コーヒー豆

そんな1980年代のはじめ頃。修さんはみずから「珈琲豆の焙煎」をはじめた。それまでバーとして夜間のみの営業だった地下店を、日中は自家焙煎したさまざまな種類の豆を、1杯ずつペーパードリップで淹れる珈琲を出す喫茶店にした。同時に、豆の販売もスタート。今でこそ、喫茶店やカフェによる「自家焙煎」は数えきれないほどにあるが、当時、京都にはほとんど存在しなかった。その味の豊かさに、スタイルに、ふたたび人々の足は六曜社に向き始める。

修さんのこの転換によって、六曜社は時代に流されることなく、むしろ新しい流れをつくりだした。修さんに影響を受けてコーヒーの道に進んだ人は、これまた数えきれないほどいる。

六曜社

そんな修さんだが
「実は、喫茶店でコーヒーの話をするのはあんまり好きじゃないです」という。

好みをいってもらえれば、どんな味でも一通り応えることができる。
話しかけると、コーヒーのことはいろいろと教えてくれる。焙煎は、日々、帰宅後に何時間もかけて行う。

六曜社 コーヒー

注文を受けてから豆を挽き、一杯ずつペーパードリップ。修さんの洗練された動きには一切の無駄がなく、スピーディに美味しい珈琲が出てくる。

そんな、いわばコーヒーのレジェンド的存在の人が、お店でコーヒーの話をするのは野暮だ、という。
その理由は、喫茶店という「場」に向ける眼差しにある。

「喫茶店に行けば、誰かがいる。だれもいない時も、本を読んだりしてそこで過ごして帰る。これが、僕の青春時代です。」
コーヒーはあくまで、傍に添えるもの。
会話をしたり、本を読んだり。喫茶店が担ってきた大切なものは、コーヒーのすぐそばで紡がれる物語や、何気ないひとときのなかにある。

「自然と、人と話す場所がある。何かに出会う場を用意し続けるというのが、我々の仕事なのかなと思います。」

六曜社 コーヒーとドーナッツ

修さんの奥さんが焼く手作りドーナッツは、今や六曜社の看板メニュー。奇跡的なほどに珈琲とよく合う。

修さんは今日も淡々と、コーヒーを淹れている。自分から話しかけることもしない。少し大げさに言うならば、〈六曜社〉はひとつの舞台であり、そこで働くマスターや店員さん、とびきりおいしいコーヒーやドーナッツは名脇役。主役は、この場所に足を運ぶ人のすべて。これまでに、ここで過ごした著名人やミュージシャン、作家、などの名前を挙げるとおそらくキリがないけれど、あなたもその一員なのである。有名無名は関係な