BOAT「伏見 十石舟」

 

情緒あふれる船旅で先人たちに思いを馳せる

文:中村慶子、写真:津久井珠美 

 

飲んだり、愛でたり、産業に用いたり。水の用途はさまざまだが、忘れてはならないのが水運という役割。陸上交通が発達する以前、川を使って人や物を運搬することで、京都の経済は大きく発展した。京都―大阪間の流通拠点となっていたのが、伏見港。日本で最も有名な河川港を、観光船に乗って訪ねた。

宇治川の分流にある乗船場は、京阪「伏見桃山」近鉄「桃山御陵前」の両駅から徒歩で15分ほど。昔ながらの十石舟を再現した、20人乗りの木造船に乗り込んだ。バスフィッシング用ボートのように後部に動力がついて船長が舵を取り、前方の船頭がマイクで案内。客は両側に向かい合って座席につくスタイル。あいにく雨の日でほかに乗客はおらず、静かに往復55分の船旅に出航した。動き出すと、川面と水辺が手に取るように近いことに気づく。水面を泳ぐカモは、周囲がこんなふうに見えているのだろうか。桜の季節に訪れる人が最も多いそうだが、青々としなやかに伸びた柳も雨に濡れて美しい。屋根があり、両サイドも透明板で囲われているから、雨や水しぶきがかかる心配もいらない。

伏見は「伏水」とも表記されたように豊かな水に恵まれ、古くから酒づくりの盛んな地。木造の酒蔵が立ち並ぶ様子を、「さすが日本三大酒どころの一つ」と感心しながら眺めていると、河畔に「寺田屋」と書かれた看板と矢印を発見。坂本龍馬が定宿にしていたことで有名な旅籠で、駐車場の間から風格あるたたずまいと観光客の姿が見えた。このあたりを「寺田屋浜」と言い、十石舟より大きな三十石船が乗船していたが、龍馬もこの三十石船をよく利用していたそう。寺田屋から川を隔てた向かいには龍馬と妻・お龍のブロンズ像があるが、「日本最初の新婚旅行」への旅立ちも寺田屋浜からだった。龍馬の軽いフットワークを舟が支えていたのだ。

その後、「琵琶湖疎水」と「高瀬川」が次々に合流。高瀬川は伏見と京都市内を結ぶ運河で、物資を「高瀬舟」に積んで運んでいた。江戸時代初期に私財を投じて開削した、角倉了以の石碑が合流地点に見える。明治時代に入ると蒸気船が就航し、琵琶湖疎水を通じて東海道や北陸とも連絡されるようになった。ここで川が直角に折れ、昨年女性初の船長に就いた久保田真子さんが大きくレバーを引き、左に舵を切った。「父親がバス釣りのプロだったので、舟の操縦と魚釣りは昔から得意だったんですよ」。真剣な表情で舟を操縦しながらも、笑顔をのぞかせて教えてくれた。

河口に近づくにつれ、川幅が広がってきた。やって来たのが「伏見港」。ここが桃山時代、伏見城を築城した豊臣秀吉によって設けられた、かつての京の玄関口だ。当時はこの南に湖ほど大きな「巨椋池」があったため、堤防を築いて池の洪水を抑えるとともに、宇治川の流れを利用する目的でつくった港。天下人のスケールの大きな仕事に感心する。鉄道の開通などで港は徐々に衰退し、1962(昭和37)年には貨物船の輸送自体が消失。今は公園として埋め立てられているが、昔はこの約3倍の広さの船溜まりで、さぞかし賑わっていたのだろう。

久保田さんの安定した舵さばきで進行方向を変え、「三栖閘門」に到着。船着場でいったん降り、閘門や資料館を見学する行程となっている。河川改修により宇治川本流と分流との水位差が生じたために作られた、パナマ運河方式の閘門。階段を上がると閘門の向こうは眼下に宇治川本流が流れ、河川敷に広大な緑地が広がっていた。宇治川はやがて、桂川、木津川と合流して、淀川へ。かつて舟は44㌔ほど先の大阪・天満橋付近にある「八軒家船着場」を目指していたのだ。陸上交通に慣れ切ってしまった現代人には想像し難いが、人々は今よりタフに、ときには風流に、移動していたのだろう。そんなことを思いながら、復路の舟に乗り込み水路を折り返した。

 

十石舟

住所:京都市伏見区南浜町247(乗船場)

TEL:075-623-1030(NPO法人伏見観光協会)

運行期間:2016年度は12月4日まで(8月は13、14、15、16日のみ。三十石舟は異なる)

運休日:月曜日(祝日を除く。4、5、10、11月は運航)

料金:中学生以上1200円、小学生以下600円、小学生未満300円


★この記事は、京都を「A」から「Z」で考えるWEBマガジン『BEACON MAGAZINE VOL.3 ~AQUA in KYOTO』に掲載されています。ぜひこちらから他の記事もご覧ください。

『BEACON MAGAZINE VOL.2 ~CRAFTS of KYOTO』
→→『BEACON MAGAZINE VOL.1 ~宇治・伏見のA to Z』

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